◆100を100として◆

2001年6月4日
後半ヤバイ論調に陥ってます。書いてて眠いです。パワプロ、プリメなど、人間のある部分を数値に置き換えることに、是、とは言わないまでも、理解がある方であることを望みます。

ちなみにまた前後編。


本日「ビートたけしのTVタックル」を見ました。テーマは「我慢ならないムカツク女たち」、であった。例を電車内の出来事に絞って、電車内を私物化する様が挙げられていた。カーラーで髪を梳かす、餃子を食べる、ペティキュアを塗る、すね毛を剃る、ブラジャーを着替える・・・。実に様々な事例が挙げられていた。討論相手に若い女性が十数人出演していたが、実際の事実だそうだ。

芸能人のコメンテイターは迷惑な行為だから、やめなさい、と言う。一方女性側は誰にも迷惑かけていないのだからいいではないか(勿論語調はもっとくだけてますが)、と反論する。果たしてどちらの主張が正当性を持つのだろうか。いや、より根本的に、2元的な解しか当てはまらない論争なのだろうか。

まず、現状の判断を各自の立場に拠らず、実際の現場を分析することから問題を把握していきたいと考えている。まず、山手線などでは実際に現象があること。根拠は様々だが、快く思っていない人が存在すること。加害者、的、な側は害を与えているという意識は持っていないこと。この相反する立場は何故生み出されたのだろうか。仮説を用いて論じていきたい。

迷惑を与えていない、とは両者にとってどこまで説得力を持ちうる論拠なのか。電車内で飲食して食べ散らかせば、明らかに害を与えている。ペティキュアを塗る行為はどうか。席の過剰占有による被害がなければ、実害はない。ただ、行為に夢中でパンツを見せるなとか見苦しい、といった指摘はされていた。

どうやら迷惑(実害)をかけているか否か、に解を帰結させるのは不適切ではないか、との思いが大きくなってきている。リサーチデータの伴わない、あくまで試論だが、仮説を展開してみたい。

ミミズという軟体動物が自然界に存在する。勿論食物連鎖を支える益虫だ。そうはいっても目の前に出されて触ってごらん、と言われたなら不快感を滲ます人が多いのではないだろうか。その理由は先入観と感覚神経の認識による反応である。ここで「とりあえずミミズは不快なものだ」という論式が成り立つ。

仮のシチュエーションで、ミミズが電車に乗っていたらどうだろう。人はとりあえず不快感を抱く。ミミズには電車を降りてもらいたい。しかし感情に基づくのであれば、根拠として説得力は薄い。論拠を求めて実害を探すことになるのではないだろうか。一方、ミミズにとっては実害を与えている意識はない。教育レベルの差は有るだろうが、彼(彼女)は素なのだ。

もしこの仮説が根拠を補完することができるなら、両者の対立は相容れぬ主張を問題視することが出来る。主に実害ではなく、不快感を与えているか、どうか。また、モラルを根拠に不快を与える行為をやめてもらうことを述べることが出来るのか、どうか。

私はこの論戦の戦場を「美意識」フィールドに移すべきだと考える。人が素である状態を相対的に100(単位は%)、それを下回れば不快感を与えており、上回れば好意を持たせる行為を執っている、と設定する。事例は引き続き電車内とする。行為者をA(actor)、行為をP(A)とし、受動者R(receiver)、受信評価をP(R)とする。Aが素のP(A)100を行っている場合、RにとってはP(R)80(数値は100より下の印象値を示すことを目的とし95でも40でも良い)と評価する。人は好意より悪意がどうしても先に目に付いてしまう生理なので、P(A)から不快感を引き出してしまう。同様だが、座る前に御年配に席を譲るP(A)120を示しても、好意から来る配慮はR(譲られた人、且つAとは接点を持たない)には理解されづらく、Rには格別なこととは写らずにP(R)100を保つに留まってしまう。また仮にわざわざ席を立って席を譲った場合はどう写るか。Aは同様の行動をおこなうが、Rは好意を受けたことを意識するのでP(R)は110をカウントする。このように自分を高次に印象をもたれるには配慮の美意識を持ち、良い部分を示していかなければならない。

問題を戻し、実害を与えられていないけれども、RはAに「あなたの形振が不快にさせるのですが」と示し、大竹氏の言葉を借りるなら「大人の社会教育への参加」を勧めていくべきではないだろうか。

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