◆長谷寺から見渡して考えたこと。◆
2001年6月17日事実の述懐は昨日行いました。今回は、前回の内容を材料(INPUT)として頭に浮かんだことを文字に起こしてみようと画策しています。
人生の大部分の時間を「学生」として過ごしてきました。その時間は純粋な意味で教育を受け「情報を取り入れる」期間でした。重要な効果として、「他者の存在を意識し、人間関係を訓練する」もまた、挙げられます。一般に人間関係の横軸を培うことになりますが、学校では縦軸は教師という、単純な象徴に表されてしまいます。あぁ、げに恐ろしきかな。
ま、勉強、というより知識の詰め込みでしたがね。
相変わらず余談が多すぎます(ごめん、直らん)。
実際に長谷寺を訪ねた方はご存知かもしれませんが、階段を上り観音様が安置されているフロアに上がると、由比ヶ浜一帯を見下ろせる展望台があります。かつてこの地に鎌倉幕府が置かれていたのだなぁ、と感慨に耽りました。
源頼朝がこの地を選んだのは、天然の要害であったためと言われています。山に囲まれ、通路は切り通し。大軍勢が一度に乱入できない仕組み。戦国時代中期までこの城壁思想は続きましたし、天然の要害の機能を生かした、というところでしょうか。海を目の前に持つこと、平清盛以来の日宋貿易を引き継ぎ、貿易収入確保でやんす。
確かに当時の状況から考えれば、適切な用地の選択といえるのでしょう。ただ、現在の歴史評価のフィルタを通してみると、気になる点も。
切り通しに象徴されるように、鎌倉という土地は周囲を山に囲まれています。しかも、土ではなく、岩山。すなわち土地が痩せていて、当時の流通貨幣コメの生産力に劣ります。又、専守防衛都市としては優秀な都市づくりではあります、が、“首都”機能を追求した場合、拡充の余地がない用地であるのは大問題と言えます。鎌倉幕府が100年余りの寿命であり、人口増加率が今ほどではなかったため問題は表面化しませんでしたが、いずれ現在の東京都の首都移転のような騒動が起きることが予期できます。
海の問題でいえば、鎌倉に面している海辺に問題が挙げられます。現在、湘南、由比ヶ浜はマリンスポーツのメッカ。つまり、砂浜がメインです。これは大規模な船舶の入港には不適な地形です。当時の海運は河川でも使える小船です。陸上からの物資の輸送が困難であるなら、必然的に海上から運び込むしかありません。木材は周辺の山から調達できますが、中世からの脱却を図るには足りません。やはり、はじめから限界が見えている都市であった、との判断が導けます。
この3点から頼朝の為政者としての才能を減点するのは早計かもしれません。ただ、都を置く根拠には欠けていたかも知れません。伊豆から挙兵したと言うのも、当地に置く理由にはなりませんし。
やや酷ですが、時代を見通す先見力は高い評価を与えられないでしょう。元々政治力の人ですしね。
きっと、きっと、鎌倉市民の方にとっては異議もあるでしょう。ただ歴史から学べば、こうなるんじゃないかなぁ、と思って文をしたためました。この検証に都市建築の裏付けが必要ですね。試論だけに結果と説得力が伴いませんね。
抽象化、シミュレーション好きの戯言、と置き捨て下さいませ。ではでは。
人生の大部分の時間を「学生」として過ごしてきました。その時間は純粋な意味で教育を受け「情報を取り入れる」期間でした。重要な効果として、「他者の存在を意識し、人間関係を訓練する」もまた、挙げられます。一般に人間関係の横軸を培うことになりますが、学校では縦軸は教師という、単純な象徴に表されてしまいます。あぁ、げに恐ろしきかな。
ま、勉強、というより知識の詰め込みでしたがね。
相変わらず余談が多すぎます(ごめん、直らん)。
実際に長谷寺を訪ねた方はご存知かもしれませんが、階段を上り観音様が安置されているフロアに上がると、由比ヶ浜一帯を見下ろせる展望台があります。かつてこの地に鎌倉幕府が置かれていたのだなぁ、と感慨に耽りました。
源頼朝がこの地を選んだのは、天然の要害であったためと言われています。山に囲まれ、通路は切り通し。大軍勢が一度に乱入できない仕組み。戦国時代中期までこの城壁思想は続きましたし、天然の要害の機能を生かした、というところでしょうか。海を目の前に持つこと、平清盛以来の日宋貿易を引き継ぎ、貿易収入確保でやんす。
確かに当時の状況から考えれば、適切な用地の選択といえるのでしょう。ただ、現在の歴史評価のフィルタを通してみると、気になる点も。
切り通しに象徴されるように、鎌倉という土地は周囲を山に囲まれています。しかも、土ではなく、岩山。すなわち土地が痩せていて、当時の流通貨幣コメの生産力に劣ります。又、専守防衛都市としては優秀な都市づくりではあります、が、“首都”機能を追求した場合、拡充の余地がない用地であるのは大問題と言えます。鎌倉幕府が100年余りの寿命であり、人口増加率が今ほどではなかったため問題は表面化しませんでしたが、いずれ現在の東京都の首都移転のような騒動が起きることが予期できます。
海の問題でいえば、鎌倉に面している海辺に問題が挙げられます。現在、湘南、由比ヶ浜はマリンスポーツのメッカ。つまり、砂浜がメインです。これは大規模な船舶の入港には不適な地形です。当時の海運は河川でも使える小船です。陸上からの物資の輸送が困難であるなら、必然的に海上から運び込むしかありません。木材は周辺の山から調達できますが、中世からの脱却を図るには足りません。やはり、はじめから限界が見えている都市であった、との判断が導けます。
この3点から頼朝の為政者としての才能を減点するのは早計かもしれません。ただ、都を置く根拠には欠けていたかも知れません。伊豆から挙兵したと言うのも、当地に置く理由にはなりませんし。
やや酷ですが、時代を見通す先見力は高い評価を与えられないでしょう。元々政治力の人ですしね。
きっと、きっと、鎌倉市民の方にとっては異議もあるでしょう。ただ歴史から学べば、こうなるんじゃないかなぁ、と思って文をしたためました。この検証に都市建築の裏付けが必要ですね。試論だけに結果と説得力が伴いませんね。
抽象化、シミュレーション好きの戯言、と置き捨て下さいませ。ではでは。
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