◆時を積分してみる日。◆
2001年12月31日▼思い出の総括。
HDのデータを消去するようには行かず、さりとて懐かしさに耽るわけにも行かず。積み上がりつづけ、下層の思い出は取り出だすのも難し。
それだけ若かりし頃の記憶は年月が積層するにつれて、手放しがたいものになっているのだろう。明日以降の自分に向けて。
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セグメント意識との邂逅。
高校生のころまでは、世の中に「まず疑いの目」で接していました。今あるルールが最も適切なものなのか?整然としていないうえに矛盾を抱えてはいないか?など。
例えば年の暮れ。12/31と1/1の間に何が存在しているのか、甚だ疑問でした。昨日〜今日〜明日の連続性はいつでも変わらないではないか、“新年の決意”などといって昨日と決別するのは整合性がないのではないか。そんなことを考え、除夜の鐘と元旦の存在意味を認めていなかった気がします。
現在。妥協したわけでもなく打ち負かされたわけでもなく、一年の区切りを受け入れるようになってきました。心穏やかに物事を見つめられるようになって、改めて疑問にアプローチしてみる。考えてみれば、一呼吸する間において、執り行うことができる行動はほんのわずか。タームを一日・一週間・一ヶ月と拡大してみても、常に上限は存在します。それはつまり、今までの自分が「その場その場で解決できること」しか関わっていなかった、ことに行き当たります。年齢を重ねるということは「扱える物事が加重される」ということで、同時に扱う期間=区切りも長くそして明確な終止符も用意されること、と考えるようになりました。
特に、事例事例で「今回はどのくらいのタームが必要か」を意識することが重要になってきました。そういった意味で、タクティクスでいう“戦略”の広い俯瞰視点を忘れないようにするために、一年に一度区切りを自ずから用意することになりました。普段の生活では「365日のうち、7日をこれに割り当てる」なんて意識しませんものね。惰性で生きていると一日に何時間もTVに消費してしまうくらいなのですから(苦笑)。時間感覚を微分してばかりいてばかりだ〜!
エラソーなことわめき散らしたあとなので、学生のうちに人生の計画表をたてて見ます、ハイ。
やっぱり人生カウントダウン。けれど、時間はワンブロックではなくて幾つかの小さなブロックで構成されている。大晦日ののんびりした時間にくらい、それを噛みしめてみます。ではでは。
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