◆気分転換に。◆
2002年1月12日▼どっちでもいいじゃん。
僧都が屏風に上手に絵を描いた。
↑身分の高い人の方が絵を描く機会が多いと思う。
********************************************
あまり更新しないのもアレなので。
10000Hitもしてますし。以前一度カウンター壊れたので、実際には+1200なのですが。過ぎ去りしあの頃に・・・どうでもよいことです、ハイ。そんなわけで、五円煎餅としての記念ページです。
http://www9.wind.ne.jp/bluesphere/the_10000th_hit.htm
---
気まぐれに「しゃべり場」を見てみる。今回のテーマは「老人介護できますか?」。
考えるだけでなく、実際に行動に移してみないと評価が与えられない類の問題だけれども、全年齢が対象のこと。10代、20代の私達だけでなく、介護を受けることになる親の世代も含めて。
一人暮らしをしている身としては“親を疎ましく思った”時期すらも懐かしいこの頃。自分のこととして還元してみると、私の取るべき行動はーーー。そのまえに「面倒を見ることが出来る」というのはどういうことか、明らかにせねばならないと思う。番組中でもその境界条件は不明瞭で、「親の傍にいて自分の手で介護すること」のみを肯定派と設定していた。
もう一方の否定派はどうか、というと、少々説明が必要になる。“一方の〜”と云っても、英語のanotherの意味であってotherではない。否定派に分類された参加者も各々意見を持っているのだ。争点となるのは否定派の中で、「親の傍らに四六時中ついていないで、自分の手で介護しない」層の人たち。この点で参加者の信条が読み取れる場面でした。
「働いて金銭を稼ぐこと=老人ホーム入居の費用を稼ぐこと」を親への愛、介護と設定していた人。そして「上記の条件プラス、諸般の事情で親元を離れるが、気掛かりである」人。(大雑把であるが)大別すると2つに分けらる。前者と後者、違いというのはどこに現れるものなのだろうか。
とある参加者が言う、「親が言うんです、ボケたら老人ホームに入れてくれ、遠くにいてもお前の愛は感じるから」、と。親の立場になった場合、完全に老後の世話をさせるために子供を用意したというのを除いて、親は子の犠牲になる運命なのかもしれないなぁ、と思えた。その程度の差はあれど。悩むものではなく、微笑をもって受け入れるものになるのでは・・・、と。まことに勝手なシミュレートで心苦しいが、そのような気持ちを持つようになるであろうと感じる。環境の違いで極端な差もあるのは承知であるが・・・。
<中略>
結論としては“カタチ”だけを送って済ました気になるのではなく、“気持ち”を伝えるべき(betterという意味で使用)と考える。久々に番組参加者を上から見下ろす気になっていたのを、同じ立場で考えられるような話題が出てきた〜。しゃべり場の中興か?
誤解もすれ違いもあると思います。そのときはお互い20年後に答えを照会し合いましょう。ではでは。
コメント