◆起点〜終点。◆
2002年3月6日「いつまでも・・・」
という言葉が最近気になって仕方がありません。少し、脳内を整理してみたいと思います。
この頃、所謂“締め切り”のある生活を送らせてもらっています。この張りのおかげで弛緩(具体的には深夜のゲーム・プレイ)が楽しく過ごせています。
これらのことによって時間は有限だと感じることができています。“大切”かどうか、はまた別の論でありましょうが。くだらなくみえて、有意義でもあり、利益をもたらす(であろう)時の流れ。渾然一体となりながら不確かな所感だけを残していきます。
提題のフレーズには、「好意的な解釈」と「否定を前提とした枕詞」の両者がそれに続きます。TVのコーヒーのCM(http://jp.nescafe.com/cm/nav1_nest/4_3.html)でふと目にしたものです。「いつまでも作り続けることに価値がある」と。
その姿勢には共感を覚えるものの、設計図のない遊戯のようにも思えて、快く感じない部分があるのです。ケリをつけることと換言できるでしょうか。サグラダ・ファミリア大聖堂を作り続けることは人類の発生から現在までの営みをトレースする作業に例えられて、たいへん興味深いものはあります。しかし、森氏の浮遊研究所(http://www.mf-davinci.com/mori/)にもありましたが、ミレニアムを振り返る視点はあっても、未来への展望は50年そこそこまで、という批判精神も自身の中で湧き上がってきます。
今はまだタームは(ある程度ではありますが)自分で区切ることができています。一呼吸する間に執り行う行動が限られているように、呼吸の積み重ねによって物事が為され、積み重ねを予想して微分することで設計図を脳内に取り込みます。
逐一自分の不安に付き合って生きていくのは辛い作業です。思考にしろ行動にしろ、限界スピードを把握してしまったからといって、寿命や12進法が突然変更されるわけでもないです。見切りといいますか、ピリオドをうつタイミング、のようなものを用意しなくてはならないのだなとため息が出るほど思わされています。
とりあえず、大学卒業。グータラ生活にもオサラバ。我こそは凡才ナリ。おやつはピスタチオ。とりとめもない言葉を重ねることにしますか。
結論。
「いつまでも」を私が用いるときは、非常に慎重に使うことにします。ハイ、おわり。
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