日記というより週記という方が適切ではないか、と思えるこの頃。4連休の夢が燻っている煎餅です。

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佐藤友哉著「エナメルを塗った魂の比重」、読了。

 次に何を読もうか、と悩む際に、お気に入り作家のストックが尽きてしまっていたらどうしますか?また書店に行って、海の物とも山の物とも見分けが付かない背表紙をグルリと見渡して、賽銭箱に願掛けするつもりでレジに持っていく?それはそれでデジタルには無い偶然の出会いを演出するときもありますが、基本的には遊戯の域を出ないでしょう。大抵は一度読了した作家の本の裏表紙を捲って、出版社の広告や書評をもとに、異なる作家を探してみるのではないでしょうか。

 今回、愚かにも出版社に導かれるままに「メフィスト賞作家フェア」、という外枠の共通点から作品を選んでみることにしました。舞城王太郎氏、西尾維新氏、これら最近の若い作家の的中率がイチロー並み(この比喩だと高いのか低いのかわからん)だったので、今回はそちらのベクトルで選んでみました。

 で、どうだったかというと…。主観的には見るべき点が2点、ありました。自覚できるほど最近、「疲れ溜まってきたなぁ」と感じます。夕方頃、会社の同期に「顔色悪いよ?」と指摘されるくらい外面にも出ているようです(その台詞を遺して彼等彼女等は帰宅していきます)。そのような体調の思わしくなさが原因なのか、それともただ単に異界の空気に憧れてなのか、この作品のテーマを具象したアイテムに“コスプレ”があります。着飾る記号論としてのそれについては理解していたつもりでしたが、外形的にコスプレなる対象を消費することをすっきりと、そして経済学における神のような視点で述べていることには、常ならざる関心を持って読ませていただきました。

 ヤドカリは他者の殻を被って自分のアイデンティティとします。しかしヤドカリの体が成長していくと、その身の丈にあった別の殻を新たな家として移り住みます。しかし、コスプレという外殻は、非日常としての開放感、そして他者のアイデンティティをレンタルすることで自分を演出する、いわば家に対しての“宿”です。善悪損得で当てはめる基準ではありません。むしろハレの場を催す会場こそが、神事の祭り的効果で着飾る者たちを庇護する宿であり、傘であると云えましょう。

 ここで興味深いのは、人間は“猫の皮を被る”ことができる点です。具象としての衣装を纏っていなくても、“体面”という演技をすることができるのです。面白いもので、抑圧から解き放たれた時間には自ら拘束具を纏い、普段の日常に戻ればそのベールを脱ぎ捨てます。幾分ネタばれになりますが、コスプレに身を纏っていた少女は“他者の記号としての制服”と“日常の舞台での仮面と演技”を並存させた、ある種、神的な存在を“演じるのではなく取り込む”ことになります。その過程も内向的描写が丁寧に書き込まれていきます。

 そしてもう一方の見るべき点。世にも稀な偏食性癖を持つ少女、その精神の揺らぎを、まるで読者がその少女自身になったかのように描いて見せる点です。生々しい伝播になる恐れがありますので、この作品とこの文章の次の段落までを飛ばして読んで貰ったほうがいい場合もあるかもしれません。本の帯にも載っていることなので隠さず記述しますが、その偏食性癖とは“人間の肉しか食べられない”ことなのです。あまりにも空腹で理性が隠れ、公園で遊んでいた幼女の手首を、初めてガブリと噛み千切ってしまうに至る精神描写などは、よく文章で表現できたものだと恐れ戦いてしまいました。

 …ストーリィがどうであるとか、トリックが何であるとか、私には件の特徴だけでお腹いっぱいでパセリにすら映りませんでした。何かを期待して読み進めるのもアリですが、作者の提供する生肉のステーキにどひゃぁと驚愕しながら、そのまま塩もコショウも振らずにいただくのがよろしいかと。私的価値750円。ごちそうさま、とは云いたくない食感だが(次回作、どうしよう??)


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