◆『挨拶』は必ず手打する。届かなくても、誠意(何の話?)。FFXI◆
2003年6月1日2003.06.01
■オンラインでの私的決めごと。
オンラインで笑うことができない種類の人間である。いや、正確に云うと『自然に』笑えない種類だ。実生活で気の許せる仲間に向ける笑い方と、ゲームパッドを握っているときのキーボードに打ち込む笑顔の感情表現、明らかな違いがある。
たった一文字、「W」と打ち込めばいいだけ、なのにである。左手の薬指に痺れが起こるように、なかなか全角小文字のwを打ち込めない。誘われたのが契機とはいえ、Diablo1(patch1.06)の頃からプレイしているというのに……何故この様式に違和感を感じ続けているのだろうか。
シンプルな恥ずかしさ、そして如実に「言葉と意味とが離れて行く」実感があるため、…のように思える。チャットで「w」を多用する人には身構えてしまうし、アスキーアートばかりなら尚更だ。
アナログ・アナクロの最後の世代だろうと認識している。加えてまたデジタル・オートマティックの最初の世代であるとも自認している(照れはあるが言葉にしないと伝わらない)。時代の切れ目に両者から批判され、誤解と障壁を切り開いてきた。広末涼子のCMでポケベルが学校中に広まり、休み時間になれば学内の公衆電話に列ができた。何ともいびつなコミュニケーションだとは思いつつ、世間の批判に反論したりもした。
過ぎてしまえば歴史を築くブロックの一つとして当然のことなのかもしれない。恐らく、そのどちらにも属せないバランスが、老婆心に近い心配症を引き起こしているのだろう。
……なんてことを思い返してみました。
■「ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記」永田泰大著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757714270/ref=sr_aps_b_2/249-9914883-1295542
かつて週刊ファミ通で「ゲームの話をしよう」記事連載していたころから、TVゲームに注がれる朗らかな思いやりと、共感を呼ぶエンタを文章に込めることのできるモノ書きさんとしてリスペクトしておりました。
いくつか気に止めたメモ(ドッグイヤー)なぞ書き留め。
・「『FFXI』の町は、RPGにおける便宜上の記号のようなものではなく、春先に引っ越してきた学生が初めて探索する町のように広い。」
春先の…と表現できる感受性にヤラレてます。モニタのなかに異世界が広がっているのを、息を飲みながら眺めている雰囲気、「そうだったよね」と、いつのまにか旅人から住人になってしまっている自分。
・「…寝るまえとか、踏み切りで立ち止まりながらとか、シャワー浴びながらとか、いろいろ考えてそう決めたのだ。」
白魔導師をサポートジョブに選んだとき。ウンウン腕組みしながら悩むのではないのがいいね。
・「僕が、この先もどんどんこのゲームを続けていって、いよいよヴァナ・ディールが終わりとなる日までプレイを続けたとして、僕はそこに何を感じるだろうか。」
サーバにキャラデータが保存されるオンラインゲームで、そのサービスを終了させたものはまだない。だが、いつかその日は訪れる。家庭用ゲーム機のようにメモリカードにデータを残して懐かしむことはできない。記録そのものだけでなく、そこで過ごした記憶も途切れるのだ。己の分身を失う気分を感じるのだろうか?
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