☆2003.08.19
光悦寺→源光庵→今宮神社(阿ぶり餅)→大徳寺→(バス、ドイツ人)→金閣寺→立命館大学(トホホ)→竜安寺→仁和寺→(京福嵐電)→嵯峨野→渡月橋→天竜寺→東山ユースホステル

 今日は徒歩の日、てくてく。靴紐を入念にチェックし、荷物を詰め込み、バックパッカーに変身。朝から内陸特有の蒸し暑さ。いざ、てくてく〜。

 北山〜嵐山ルートの初めは光悦寺。苔と紅葉で包まれており、秋にもう一度来たいかな。

 失礼ながら穴場的存在だったのが源光庵。伏見城:鳥居元忠の血天井を目的に訪れ、畳の上で大の字にごろり。暫くの間、力尽き矢折れ自害していった武将達を想い眺めていました…。充分想いを馳せた後、もう一つの名勝『丸窓:悟りの窓』と『角窓:迷いの窓』に目を向ける。無心で眺めてみたところ、丸=集中、角=散漫、と云うふうに気分的な感触が異なる印象を受けます。この種の仕掛けは興味深いので解明にチャレンジしたくなります!(うずうず)。で、結論。丸窓は見据える畳の合わせ目から壁の梁・
柱の部分まで、視界を誘導するように円の中心まで真っ直ぐ線が引かれています。このことが視野を自然と中心に向かわせ、意識を集中させるのです。一方、角窓は視界内に細かなギミックを仕込んでいます。すぐ右側には角窓方向を向いた絵の掛け軸もあり、意識を一カ所に定め難い仕掛けになっているのです。ただ、個人的な所感では、モノがつらつら思い浮かんでくる角窓の方が自分に馴染みます。まだその程度の精神熟成度なのでしょう…。

 てくてく、てくてく。およそ25分程南下(京風だと"下る")すると今宮神社。厄災を避けることで有名。着飾らず、観光寺社でない印象。この神社では地元の方がお参りしているのをよく見かけました。

 一息ついて休憩。今宮神社そばの茶屋で『阿ぶり餅』をいただく。竹ぐしに刺して炭焼きしてきなこをまぶしたお餅。一緒に供される冷茶も炭の香ばしさ溢れています。向かい合わせた形で2軒、茶屋があるのですが、1000年と350年の歴史を持っているのです。350年の方は"新しい方"だなんて呼ばれてるし。改めて歴史の深い土地だと思い知らされます。

 大徳寺〜金閣寺間でやっとバスに乗る。大通りの排気ガスにちょっと飽きたもので(とか云ってみるテスト)。車中で持ち物の整理などしていたところ、脳天気なやつとでも認識されたのか、ドイツからの観光客に話しかけられる。「このバスで合ってる」とか「右に送り火した山が見える()」等々、気安く話していたら、ついでに少しの間観光地を一緒に廻ることに。さらについででどうでもいいことに、この会話は双方片言の英語です。ドイツ語…全く分かりませんもので(あう)。

 国籍の異なる人同士が話をするとき、個人と個人が話しているつもりでも、"国の代表"としての意見を求められる場面がしばしば有ります。制限条件(〜に限って云えば、等)を前置きして述べるようにしてはいるのですが、この辺りにも言語の障壁以外にも構えて接するようになる原因がある、と感じてしまいます。我流のディベート術の限界、すなわち(少なくとも私には)積み重ねた経験値がないのだ、と思い知らされます(うーむ)。単純に「宗教は何?」と聞かれただけでも、自分の意見を述べる前に「万物に神が宿る思想風土」や「大衆イベントとしての宗教行事」などに関する前置きを挟まなければなりません。"常識"が"共通認識"ではなく、"障壁"となる瞬間であります。

 「果たして金閣寺が日本に訪れた異国の人にふさわしい観光地なのか?」、この点に関して疑問を覚えつつ写真を撮り合ったりしてみる。サミットやワールドカップ開催のとき、ほぼ確定的に日本ならではの料理を振る舞うのと共通の要素があるように感じる。フジヤマ、ゲイシャと同じレベルで"キンカクジ"なのだろうか、と。かと云って枯れ山水や禅を見せようとするのも方向性に誤りがある気がする…。海外から映る"日本の最大公約数像"、分かった気がします。

 京都駅行きのバス停まで案内して別れた後、徒歩でR大学に向かう。学食ハンターなバックパッカーでしたが、夏期休暇中は閉鎖で叶わず。とっとと竜安寺に行きませう。

 唐突だが、石庭後ろの白い土塀が苦手な人である。どうしても目線を林や空の方に向けてしまう。箱庭に息苦しさを感じてしまうのだ。何故なら竜安寺の空間であの白い土塀がもっとも鮮明な白で、その鮮やかさ故に目を背けてしまいたくなるからだ。結果、視線を空に泳がせることになるのだが……意外に興味深い意見を得られた。

 "箱庭"と一般に呼称されるものは、四方を壁で仕切られた空間を云う。しかし竜安寺の石庭においては性格が異なる様に思える。土塀の四隅から上方鉛直方向に、すうっと線を伸ばしてみて欲しい。そう、この箱庭は地平を囲んだものではなく、立方体の空間を6面で囲んだものなのではなだろうか。それはすなわち、『外から眺めるもの』から『内に入り込むもの』に変貌するのだ。客体から主体へ姿を変え、人間の小ささを否応無く感じさせる…。あの白い土塀は外と内をひっくり返す機構であった、と、そんな試論。

 さて、"方丈"と云う単語を検索候補リストに放り込み、仁和寺〜嵐電へ。単純に「乗ってみたかった」だけ。欲求にシンプルな解答であります。一両編成ののんびりした列車。江ノ電より世田谷線よりも地域密着型に見えます。ゆったり渡月橋まで運んでもらいます(ほっ)。

 拝観時間ぎりぎりに天竜寺に駆け込む。こちらも庭を拝観してごちそうさま〜。



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